コーチという仕事 1
1979年ロッテ・オリオンズ 打撃コーチ時
そもそも、僕の父親は打撃の専門家では無かったはずだ
守備・走塁のコーチで、打球を操る「ノック」のスペシャリストと聞いていた
以前、母を訪ねたときに「なぜ?」かを聞いてみた
V9時代に突入する1964年に現役を引退した父は
南海ホークスのプレイング・マネージャーに就任した野村克也監督から「コーチ」に迎えるという
打診を受けていた。
川上監督から「どうする?悪い話ではないぞ」と話を聞いた父は
「もう少し、巨人の野球を勉強させてください」とこのオファーを断わっていた。
巨人の守備・走塁のコーチを担うのだから、並大抵の努力では無い事は明白・・・
ましてや、外様であったのだから尚更であったろう
南海ホークスに入団した時の監督は、鶴岡監督であったから「努力」「根性」なんて当たり前
ルーキー時代の野球環境は、コーチになってから生きることになった
時代をときめくON砲をはじめ、球界最高峰の選手がいたのだ
実力で納得させねば、消えて飛んでしまうような環境だ
それでもV9を、そうそうたるメンバーと共に戦い続けることができた。
V10を逃し
長島選手の引退、監督就任・・・
父への打撃コーチ就任依頼
「なぜ?」
実は、V9時代に長島選手への打撃アドバイスをしていたのは父であったのだ
打撃コーチへの就任依頼を二つ返事では引き受けられなかったようで
川上元監督へ相談したらしい
川上さんから「一か八かやってみろ!」と促され
受諾したのが福田打撃コーチ誕生の真実ということと聞いた
母は猛烈に反対していた
続く
2010.07.07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 野球
